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御書 日蓮大聖人と創価学会

日蓮大聖人の御書は、創価学会によって、仏法を実践する上で、唯一最高の糧であり指南書であるとされています。

3月度座談会拝読御書 経王殿御返事

経王殿御返事

平成29年(2017年)3月度の座談会御書は、「経王殿御返事(きょうおうどのごへんじ)」です。「強盛な信心で妙法の功力を引き出す」こと、また、「自身の仏界を現すための御本尊」であることを学んで参りましょう。

経王殿御返事の背景と大意について

本抄は、文永10年(1273年)8月15日、日蓮大聖人が52歳の時、流罪地の佐渡・一谷から送られたお手紙です。宛名は経王御前となっていますが、経王御前はまだ幼かったため、実際には、その親である門下に与えられたものと考えられます。

本抄は、この門下が使いの者を佐渡へ遣わし、幼児である経王御前の病気平癒の祈念をお願いしたことに対する御返事です。

大聖人は本抄を認める直前、この門下に御本尊を与えられています。

経王殿御返事の拝読範囲の御文

但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし(御書全集1,124ページ10行目~13行目)

経王殿御返事の拝読範囲講義

今回、2017(平成29)年3月度座談会御書である「経王殿御返事」で学ぶ要点は「真剣な祈りを根本に」、「日蓮がたましひ」、「病魔に勝つ」の3点です。

座談会での講義の参考:経王殿御返事 |3月度座談会御書の講義

真剣な祈りを根本に

拝読御文に「但し御信心によるべし」とあります。“御本尊に偉大な功力があるといっても、それを現すのは御信心によるのです”との意味です。

私たちの仏法では、祈りを叶え成仏するための四つの要の力、すなわち「四力」(=信力、行力、仏力、法力)が説かれます。

「信力」とは御本尊を信じる力であり、「行力」とは題目を唱え、人のため、社会のために広宣流布へと行動していく力です。

「仏力」とは、仏が衆生を救う誓いを立て、その成就を願うこと、「法力」とは、妙法の広大深遠な利益のことです。

強盛な信力、行力を奮い起こしていく時、偉大な仏力、法力が現れてくるのです。

例えば大聖人は「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり」(御書1244ページ)と仰せです。成仏も、妙法を持つ人の信心の厚薄によるとの趣旨です。厚薄とは、厚いことと薄いことを意味します。つまり、強盛な信心によってこそ、成仏はあるのです。

第2代会長の戸田城聖先生は、信心の功徳について分かりやすく、次のように教えられました。
「釣鐘を、楊枝でたたくのと、箸でたたくのと、撞木(釣鐘を鳴らす棒)でつくのとでは、音が違うだろう。同じ釣鐘だが、強く打てば強く響き、弱く打てば弱く響く。御本尊も同じだ。こちらの信力・行力の強弱によって、功徳に違いがあるのだよ」と。
人生にあっても広布の活動にあっても、真剣な祈りと勇気ある行動・実践が、勝利の根本条件となるのです。

日蓮がたましひ

日蓮大聖人は、命に及ぶ竜の口の法難(文永8年〈1271年〉9月12日)を乗り越えて、南無妙法蓮華経と一体の仏の生命を凡夫の身に開かれました。
そして、大聖人は御自身の仏の生命境涯を御本尊として図顕されていかれました。
日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」とは、御本尊についての仰せです。
万人成仏という仏(釈尊)の真意が述べられているのが法華経です。
そして、法華経の根底に指し示された、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を、御自身の身に開き顕されたのが、大聖人です。竜の口の法難で発迹顕本された大聖人の御生命は、南無妙法蓮華経そのものなのです。
御本尊には、大聖人御自身の身に開き顕された妙法・仏界が図顕されています。そして、私たちが御本尊を拝して南無妙法蓮華経の題目を唱える時、自身に具わる妙法・仏界を直ちに見ることになるのです。私たちは御本尊を根本として、自身の胸中に仏界を現すことができるのです。

御本尊は、凡夫である私たち自身の仏界を映し出す明鏡なのです。

病魔に勝つ

日蓮大聖人が本抄を認められた時、経王御前は重い病気にかかっていました。大聖人は本抄の冒頭で「経王御前のことは、昼夜に日月天に祈っております」(御書1124ページ、通解)と述べられています。
さらに大聖人は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(同ページ)と仰せになり、妙法根本にどのような病魔も乗り越えることができると励まされています。
師子の声を聞けば、あらゆる獣は逃げ去ります。大聖人の仰せの通り、南無妙法蓮華経は師子吼のようなものです。妙法の偉大な功力の前に、一切の病魔は退散するのです。
ここでの「病」とは、信心の実践の上から、病気だけでなく、あらゆる苦しみや悩みとも拝することができます。そうしたさまざまな苦悩を打ち破ることができるのが、南無妙法蓮華経の師子吼です。
病気になること自体、敗北でもなければ後退でもありません。病気との闘いを、自身の宿命転換や信心を深める好機と捉えていくことが大切です。その強盛な一念が、障魔を打ち破り、崩れざる幸福の軌道を固めていくのです。

「勇気」の二字が信仰の真髄(池田先生の指針から)

薪を加えるほど火が盛んになるように、難に遭うほど、旺盛な大生命力をわきたたせていける。仏の境涯を開いていける。それを大聖人は、身をもって教えてくださった。
偉大なる仏の力がみなぎれば、障魔に負けるわけがない。
その大宇宙のような広大な境涯を涌現していく、ただ一つの条件がある。
それは「信」である。「但し御信心によるべし」「能く能く信ぜさせ給うべし」(御書1124ページ)と仰せの通りである。
どんなに鋭い剣があっても、それを使う人が臆病であれば、何の役にも立たない。大聖人は「法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ」(同ページ)と仰せになられた。

苦難に襲われたその時に、「勇敢な信心」「潔い信心」「勇猛な信心」「強盛な信心」があるかどうかだ。

「心こそ大切」(同1192ページ)である。大聖人は、幾度も「信ぜさせ給へ」等と強調されている。
今、時代は、乱気流の中に突入している。どんなに社会が動揺しても、いな、社会が動揺している時だからこそ、自らの信心だけは微動だにさせてはならない。信心さえ揺るがなければ、いかなる状況も、必ず打開できる。最後は必ず勝利する。
「わざはひも転じて幸となる」(同1124ページ)のが妙法の力であるからだ。
御聖訓に「心して信心を奮い起こし、この御本尊に祈念していきなさい。何事か成就しないことがあろうか」(同ページ、通解)と仰せの通り、どこまでも、祈り切ることだ。祈り抜くことだ。(2008・12・29付、各部代表者会議でのスピーチ)

師匠に何としてもお応えするのだと、私は命がけで戦った。
当時、時間を見つけては御書を拝し、日記に書き留めて心肝に染めていきました。
その一節に、「つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし」(御書1124ページ)があります。
これは、わが子の病と闘う門下を励まされた御聖訓です。
信心の真髄は「けなげ」すなわち「勇気」です。私も戸田先生の弟子として、渾身の勇気を奮い起こし、病魔と死魔に挑みました。とともに、師匠と学会に襲いかかる一切の障魔を、信心の利剣で叩き切る決心で、祈り、戦いました。(2012・7・26付、「若き君へ 新時代の主役に語る」)

2月度座談会拝読御書 妙一尼御前御消息

妙一尼御前御消息

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平成29年(2017年)2月度の座談会御書「妙一尼御前御消息(みょういちあまごぜんごしょうそく)」では、「“苦難の冬”を“勝利の春”に」、また、「凡夫が必ず仏に成る仏法」ということを学んで参ります。

妙一尼御前御消息の拝読御文

法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候(御書全集1253ページ16行目~17行目・編年体御書715ページ8行目~9行目より)』

妙一尼御前御消息(本抄)について

本抄は、建治元年(1275年)5月、日蓮大聖人が54歳の時に身延で著され、鎌倉に住む妙一尼に与えられたお手紙です。
大聖人が、竜の口の法難、佐渡流罪という迫害に遭われ、多くの門下が退転する中にあっても、妙一尼は夫と共に法華経の信仰を貫き通しました。
ところが、そのために夫は、所領を没収されるなどの難に遭い、しかも大聖人が佐渡流罪を許される前に亡くなりました。
残された妙一尼は、自身も体が強くないうえに、病気の子らを抱える中、佐渡へ身延へと従者を送り、大聖人にお仕えさせたのです。

【参考】地区部長の座談会御書講義
2月度座談会御書の講義 妙一尼御前御消息

難を乗り越える信心

法華経を持つ”人が難を避けることはできません。「法華経を信ずる人は冬のごとし」との仰せの通りです。拝読御文は「難を乗り越える信心」を教えています。
まず大切なことは、私たちが地道に信仰を持続する中で、いかなる難にも崩されない強盛な信心を確立していくことです。
では、正しい法(正法)を持った人が、なぜ難に遭うのでしょうか。
正法を信じ行じて、成仏の境涯を目指すということは、自身の生命を根底から変革させていくことです。
どんな変革にあってもそうですが、仏道修行においても、その変革を起こさせまいとする働きが、自身の生命自体や、あるいは周囲の人間関係の中に生じます。ちょうど、船が進む時に、抵抗で波が起こるようなものです。
成仏を目指す仏道修行の途上に起こる、このような障害に「三障四魔」があります。
また、法華経には、末法濁悪の世に法華経を弘める「法華経の行者」に対して「三類の強敵」が現れ、迫害することが説かれています。これは、釈尊入滅後の悪世において、一切衆生の成仏を願って、法華経広宣流布しようとする実践のあるところに起こってくる迫害です。
信心の途上で、こうした難を受ける意味について、個々人の宿業という観点から捉えれば、難は「宿命転換」の好機となります。正法を行ずる功徳によって、自身の生命に刻まれた悪業の報いを現世で現し、消していくことができるのです。
創価学会では草創以来、「難を乗り越える信心」に励んできました。現在、「難を乗り越える信心」は、「一家和楽の信心」「幸福をつかむ信心」「健康長寿の信心」「絶対勝利の信心」と共に、創価学会の永遠の五指針の一つとなっています。

万人成仏

拝読御文に、「若有聞法者無一不成仏」との法華経方便品第2の文が引用されています。この経文は、法華経を聞いた人は、一人ももれなく成仏するとの意味です。
法華経には、一切衆生の成仏、万人成仏の教えが示されています。それは、あらゆる生命に「仏界の生命」が具わっているという法理です。言い換えれば、万人に「仏性」(仏の性分)があるということです。
例えば、法華経方便品では、あらゆる仏は衆生に仏の智慧を開かせ、清浄な境涯を得させたいと思うゆえに、この世に出現したと述べられています(法華経121ページ、趣旨)。これは、衆生の生命に本来、仏の智慧が具わることを意味します。
法華経以外の経典では、例えば二乗(声聞界・縁覚界の衆生)は絶対に成仏できないと強調されたり、あるいは女性や悪人は仏になれないと説かれるなど、“誰もが皆、成仏できる”とは述べられていません。
法華経の万人成仏の法理は、その後、中国の天台大師によって、「十界互具」「一念三千」の法理として展開されました。
そして、末法において日蓮大聖人が不惜身命で大難と戦う中、御自身の胸中に仏界を現し、妙法と一体の御自身の生命を御本尊に顕されました。この御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱題する時、自身の仏界が呼び起こされます。末法のあらゆる人々が仏に成る道を、大聖人が開いてくださったのです。

妙一尼への励まし

本抄は、夫に先立たれて心細くなることもあったであろう妙一尼への励ましの心にあふれています。
本抄で日蓮大聖人は例えば、“法華経のために所領を没収されたあなたのご主人は、不惜身命の実践をした雪山童子や薬王菩薩と同じ功徳があるのです。月の中か、太陽の中か、天の鏡に妻子の姿を浮かべて、一日中、見守っておられることでしょう”(御書1253ページ、趣旨)と述べられています。
大聖人は妙一尼に対し、何も心配する必要はなく、必ず霊山にいる故人が守ってくれることを伝え、安堵させようとされているのです。
さらに、大聖人は、“もし私が、力のある身となりましたなら、幼いご子息たちのことは見守っていきましょう”(同1254ページ、趣旨)とまで心を配っておられます。
妙一尼の不安を払拭しようとされる大聖人の心情がにじみ出た仰せです。
佐渡や身延へと従者を遣わし、師・大聖人への真心を尽くした妙一尼。
信心を根本に何としても苦境を乗り越えてほしいと願われた大聖人の深い慈愛を、本抄から拝することができます。

真っすぐに幸福の軌道を(池田先生の指針から)

「妙一尼御前御消息」は、徹底した励ましの一書です。本抄を送られた時点で、妙一尼自身が、健気に信仰を貫き通していることは間違いありません。佐渡流罪、蒙古襲来という、教団も社会も激動の変化を続ける中、妙一尼が一点のぶれもなく大聖人とともに純真に信心に励んできたことは、御消息の文面からも推察されます。
しかし、その置かれている環境は、まさしく冬のような逆境でした。大聖人は妙一尼に「絶対に幸せになってほしい」「必ず成仏してほしい」との思いから、妙一尼の心に潜む悲哀や不安を一掃させようと、本抄で入魂の激励を重ねられていると拝察されます。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻)

法華経を信ずる人は冬のごとし」――それは、一切の宿命と戦い、乗り越え、「成仏への厳然たる軌道」を歩んでいきなさいとの厳父の慈言と拝することができます。
その成仏への軌道を「冬は必ず春となる」と示されているのです。
冬は春となる。秋に逆戻りすることはない――。これは誰も動かすことのできない自然の法則です。同じように、成仏の大法である妙法を受持しきった人が仏になれず、まして、凡夫の迷いのままで終わるはずがない。妙法を聞いて信受した人は「無一不成仏」――一人ももれなく成仏する。これが法華経に説かれた仏のお約束です。生命の大法則です。
仏の眼から見れば、誰人にも幸福になる権利がある。誰もが、歓喜踊躍の人生を送ることができる。いわんや胸中の妙法を涌現する方途を知っているのが、日蓮仏法を持った私たちです。ゆえに私たちには、幸福になる権利があるだけでなく、真の幸福を万人に開いていく大いなる使命もあるのです。
「冬は必ず春となる」とは、「信心の試練を勝ち越えた凡夫は必ず仏となる」ということです。本来、誰もが胸中に仏の生命をもっています。それを開き現していく人生の軌道に入った大聖人門下が成仏できないわけがない、との師子吼が轟いてきます。(同)

参考文献
『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻(聖教新聞社

檀越某御返事

檀越某御返事

檀越某御返事の全文となります(日蓮大聖人御書全集1294ページ15行目から1295ページ10行目)。

「御文うけ給わり候い了んぬ」から「今度心み候わばや」のところでは、値難への不退の決意を述べられています。

続いて、「事事さてをき候いぬ」から最後のところでは、宮仕えは法華経の修行なりとご教示されています。

檀越某御返事|弘安元年四月|五十七歳御作(本文)

御文うけ給わり候い了んぬ、日蓮流罪して先先にわざわいども重て候に又なにと申す事か候べきとは・をもへども人のそんぜんとし候には不可思議の事の候へば・さが候はんずらむ、もしその義候わば用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり、今度ぞ三度になり候、法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん、あわれ・あわれ・さる事の候へかし、雪山童子の跡ををひ不軽菩薩の身になり候はん、いたづらに・やくびやうにや・をかされ候はんずらむ、をいじににや死に候はんずらむあらあさましあさまし、願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度・生死をはなれ候わばや、天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい今度心み候わばや、

事事さてをき候いぬ、各各の御身の事は此れより申しはからうべし、さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ、あなかしこあなかしこ、御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり、かへす・がへす御文の心こそ・をもいやられ候へ、恐恐謹言。

四月十一日 日蓮 花押

檀越某御返事の通解

お便りの件、承りました。日蓮を流罪してその報いで先先これまで種々の災難が重なっているのに、また何かと言われているようなことがあるとは思えないが、しかし、人の運が尽きて滅びるような時には、考えられないようなことをするもので、そのようなことがないとはかぎるまい。しかし、もしそれがあれば、日蓮の主張を用いてもらうよりも百千万億倍も幸いである。今度で三度の流罪になる。法華経もよもや日蓮を怠慢な行者とは思わないであろう。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の諸菩薩の御加護があるはずであるからそれを今度こそ見極めたいものである。ぜひとも、言われているようなことが起こることを願っている。そして雪山童子の跡を継ぎ不軽菩薩のような身になりたいものである。このまま生き長らえてもいたづらに疫病にかかって倒れるか、または年老いて死んでしまうからである。嘆かわしいことである、嘆かわしいことである。願わくば法華経のために国主に憎まれて、今度・生死を離れたいものである。天照太神・正八幡大菩薩・日月天・帝釈・梵天大王の等の仏前の誓約を今度こそ試しみたいものである。

以上述べたことはさておいて、各々の御身のことはこれより諸天に守護をお願い申し上げる。だからそのまま出仕されておられることこそ、法華経を十二時に修行されていることになるのである。あなかしこ、あなかしこ。宮仕えを法華経の修行とおもいなさい。経に「一切世間の治生の産業は皆、実相と相違背しない」と説かれているのはこのことである。くれぐれもお便りのご配慮のこと、承知しております。恐恐謹言。

四月十一日 日蓮 花押

檀越某御返事 12月度座談会拝読御書

檀越某御返事

2016年12月度の座談会御書は「檀越某御返事(だんおつぼうごへんじ)です。

拝読の御文では、自分の今いる場所が挑戦の舞台である。粘り強く社会で勝利の実証を示すことが真の仏法の証しであると御指南されています。

拝読御文は以下のとおりです。

御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり(御書全集:1295ページ7行目~8行目)

檀越某御返事について

本抄は弘安元年(1278年)4月、日蓮大聖人が身延で著されました。 本抄の題号に「檀越某」とあるように、ある檀越(檀那のこと。在家の有力門下)に与えられたお手紙ですが、詳細は定かではありません。

大聖人は文応元年(1260年)、「立正安国論」の提出によって国主諫暁をされて以来、相次ぐ迫害を受け、伊豆流罪、佐渡流罪に遭われます。そして、佐渡流罪の赦免から4年がたった弘安元年になると、3度目の流罪が企てられたようです。本抄は、その知らせを受けて認められた御書です。

大聖人は、3度目の流罪が起こるのであれば、百千万億倍もの幸いであり、大聖人こそが法華経の行者であることが明確になると仰せです。大聖人は「あわれ・あわれ・さる事の候へかし」(御書1295ページ)と、3度目の流罪という大難が起こることを願っているとさえ述べられています。さらに、疫病や老いによって、はかなく死ぬよりも、願わくは国主の迫害を受けて法華経に殉じていこうとの覚悟を示されます。

最後に、この檀越に対して、いかなる状況にあっても、今のまま主君に仕えることが法華経の修行であると捉えて、現実社会で勝っていくよう教えられています。

信心即生活

一般に、信仰を“日常の生活から離れた特別な事柄”とする考え方や、日常生活の中でも信仰の時間と生活の時間とは別のものであるとする見方があります。しかし、日蓮大聖人の仏法においては、信仰と生活とは、そのように切り離されたものとしては捉えません。

拝読御文に「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と示されています。「御みやづかい」とは主君等へ仕えることであり、今日の私たちの立場にあてはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活に当たります。

この御文は、日々の生活の場が、そのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場であることを教えられているのです。 生活は、私たちの生命活動そのものにほかなりません。そして、信心は、私たちの生命自体を変革し、充実させていく力となります。

生活の場で直面するさまざまな課題に対して、御本尊への唱題を根本に真剣な努力を重ねていった時に、その現実との戦いそのものが、私たちの仏界の生命を涌現させる機縁となり、自身の生命変革をもたらします。また、信心で開拓した生命力、豊かな境涯で生きれば、現実の生活そのものも、おのずから変革されていきます。

信心を草木の根に例えれば、生活は、豊かな果実を実らせる幹や枝に例えることができます。信心を根本にすえない生活は、環境に流されてしまう根無し草になりがちです。信心の根が深ければ深いほど、盤石な生活を築いていけると説くのが大聖人の仏法です。

以上のように、大聖人の仏法においては、信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであると捉えて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを教えているのです。

実相と相違背せず

「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは、法華経法師功徳品の「諸の説く所の法は、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経549ページ)との文の趣旨を天台大師が説明した言葉です。

この法華経の文は、「意根清浄」の功徳の一つに当たり、法華経の受持によって「意根」すなわち「心」の働きが清浄になれば、その人が世間法のいかなることを説いても、仏法にかなった正しい言葉になっているとの趣旨です。 ここでいう「清浄」とは、感覚・知覚器官が清らかになり、物事を正しくありのままに捉えることができることをいいます。

天台大師は、法華経を持った人の功徳について、“社会生活や生産活動など世間における人々のさまざまな営みが、妙法に背くものではない”と教えているのです。 社会や生活という現実をどこまでも大切にして、信心根本に努力を重ねていくところに、妙法を持つ信仰者の真の姿勢があります。

世間と出世間

人々が互いに関わって生活している場、すなわち世の中のことを「世間」といいますが、もともと仏教でいう世間は、「移り流れてとどまらない現象世界」という意味で、いわば迷いの世界のことです。

一般の仏教では、私たちが住む迷いの世の中である「世間」に対して、この世間を離れて覚りの世界を求めることを「出世間」といいます。

法華経以外の教えでは、この「世間」と「出世間」を別のものと捉え、「世間」を離れた「出世間」の中に覚りの道があるとしました。俗世から離れた山林、寺院などにこもったり、西方浄土に生まれ変わろうと願うのは、こうした例です。

しかし、法華経では、社会や日々の営みがそのまま仏法であり、現実を離れて仏法は存在しないと説きます。日蓮大聖人は「世間の法が仏法の全体である」(御書1597ページ、通解)と示されています。大聖人の仏法では、「世間の法」である政治、経済、文化、教育等の社会の諸事象や日々の営みが、そのまま仏法の全てなのです。

座談会御書の講義の一例:檀越某御返事

仕事に励むことが即、仏道修行(池田先生の指針から)

以下、池田先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」(2015年12月号「大白蓮華」)より引用。

本抄の対告衆である門下は、襲いかからんとする迫害の兆しを知り得る立場にいたのではないかと考えられます。もしかすると、弾圧を加えようとしている権力者の近くで勤める立場であったのかもしれません。いずれにせよ、大聖人の門下であることが原因で重大な危険にさらされかねない状況の中、日々、真面目に誠実に勤務していたのだろうと想像できます。

だからこそ、大聖人は、この門下にきっぱりと言い切られます。「さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ」日々、真剣に仕事を果たすことが、そのまま一日中、常に、法華経の修行をしていることになると仰せなのです。

「信心」は即「生活」であり、「仏法」は即「社会」なのです。また仏法は勝負です。一番、真面目に信心をし抜いた人が、最後は必ず勝つのです。

戸田先生は、「檀越某御返事を、目や頭で読まずに、体で読んでほしい」と、常々、語られていました。私も若き日、戸田先生のもとでお仕えしましたが、本当に厳しい薫陶の連続でした。学会活動を理由に、仕事を疎かにすることなど、断じて許されませんでした。

「信心は一人前、仕事は三人前」と、信仰者としての姿勢を、厳格に教えられました。少々、長くなりますが、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」を拝した、戸田先生のご指導を紹介しておきます。

「自己の職業に、人一倍打ち込もうともせず、ただ漠然として、信心していけば功徳があらわれて、なんとか成功するであろう、などと考えるのは、これ、大いなる誤りである」

「わが職業に歓喜を覚えぬような者は、信心に歓喜なき者と同様であって、いかに題目を唱えようとも、社会人として成功はあり得ようがない」

「職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである。また、会社やその他への勤め人は、自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活が大事である」

以上です。