御書 日蓮大聖人と創価学会

日蓮大聖人の御書は、創価学会によって、仏法を実践する上で、唯一最高の糧であり指南書であるとされています。

9月度座談会御書の講義 持妙法華問答抄

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平成29年(2017年)9月度の座談会御書の講義・研鑽は「持妙法華問答抄(じみょうほっけもんどうしょう)」です。

本抄では「『現世安穏・後生善処』の妙法を持つのみこそ」と仰せです。

この「持つ(たもつ)」とは、「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり(御書・四条金吾殿御返事:1,136ページ)」と仰せのように、成仏には欠かせない勇気ある実践のことです。

それは、学会活動における広布拡大の実践であり、妙法を根本に永遠の幸福境涯の確立を目指す唯一の道であります。

このことを、9月度座談会御書の持妙法華問答抄に学んで参りましょう。

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本書(持妙法華問答抄)について

「持妙法華問答抄」は、その題号の通り、「妙法華(妙法蓮華経)」を「持つ」ところにこそ、一切衆生の成仏の道があることを「問答」の形式で教えられた御書です。弘長3年(1263年)の伊豆流罪赦免の直後に著された等と伝えられていますが、御執筆年、宛先を含め、定かではありません。

本抄は、五つの問答から構成されており、法華経の修行のあり方について問う第5の問答では、妙法への「信」が大切であることを確認されています。

また「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」(御書465ページ)と、法華経という法が勝れているゆえに、その法を持つ人もまた勝れているのであり、法華経の行者を謗る罪の大きさは計り知れないと述べられます。

さらに名聞名利に執着することなく、法華経を信じて妙法を自らも唱え、他にも勧めていくべきことを教えて本抄を結ばれます。この最後の部分が、今回の拝読御文になります。

持妙法華問答抄の拝読御文

「寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは『現世安穏・後生善処』の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき(御書全集:467ページ16行目から18行目)」

持妙法華問答抄の通解

久遠の仏の住む永遠の仏国土でないのであれば、それがどこであろうと皆、苦しみの世界にちがいない。生命本来の覚りの境地を離れて、何が楽しみとなるだろうか。願わくは「現世は安らかであり、来世には良いところに生まれる」と仰せの妙法を持つこと、それのみが、この一生の真の名誉であり、来世の導きとなるのである。是非とも全精魂を傾けて、南無妙法蓮華経と自身も唱え、他の人にも勧めるが良い。それこそが、人間として生まれてきたこの一生の思い出となるのである。

娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)について

日蓮大聖人は、「寂光の都」「本覚の栖」を離れて真実の幸福、楽しみはないと述べられています。

「寂光の都」とは、久遠の仏が住む清浄な国土のことです。また、「本覚の栖」とは、久遠の仏の覚りの境地を意味します。この境地は、本来、あらゆる生命に具わっています。

法華経以外の権大乗経には、阿弥陀仏などの仏が登場しますが、それは現実を離れた、別の国土に住むとされた仏です。ゆえに、そうした仏に救いを求めようとすれば、苦悩の現実を離れてその仏の国土に行くしかありません。

これに対して、法華経如来寿量品の仏は、この娑婆世界(=苦悩が充満している人間社会)で説法教化し続けると説かれています。どこか別の場所に仏国土を求めるのではなく、この娑婆世界の中に出現して教えを説き続けることが明かされているのです。

「苦悩に満ちた現実世界」が、そのまま「寂光土」に――これが、「娑婆即寂光」の法理です。

「御義口伝」に、「此を去って彼に行くには非ざるなり(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり」(御書781ページ)と示されています。

苦難、苦悩を避けることなく、自身に本来具わっている仏の生命を開いて、今いる場所を

「寂光の都」に変えていく。そのための直道が「心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧ん」(同467ページ)という実践なのです。

「現世安穏・後生善処(げんぜあんのん・ごしょうぜんしょ)」について

「現世安穏・後生善処」とは法華経薬草喩品第5の文です。法華経を信受すれば、現世は安らかであり、来世には善い所に生まれるとの意味です。

法華経の説法の会座ではここに至るまでに、最も尊貴な仏の生命があらゆる人々に具わっているという教えが述べられ、それを聞いた舎利弗や迦葉らの弟子が釈尊の教えの真意を理解します。続く薬草喩品で釈尊が、弟子たちの理解した妙法の功徳の偉大さを示します。「現世安穏・後生善処」は、この中の一節です。

私たちの仏法における安穏は、生活、人生の上で波風が立たない平穏なことをいうのではありません。一生成仏を目指す仏道修行の過程にあって競い起こる三障四魔、三類の強敵を乗り越える確固たる自身を築く中にあります。

日蓮大聖人は「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり」(御書1143ページ)と仰せです。また御書には「所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり」(825ページ)と示されています。妙法根本に広布に進むこと自体が、「現世安穏・後生善処」の証しなのです。

妙法を持ち広布の実践を貫く中で、永遠にわたる安穏の境涯が確立されることを心に刻みましょう。

自行化他(じぎょうけた)について

日蓮大聖人は本抄の結びで“全精魂を傾けて、南無妙法蓮華経と自身も唱え、他の人にも勧めるがよい。それこそが、人間として生まれてきたこの一生の思い出となるのである”(御書467ページ、通解)と述べられ、「自行化他」の実践が大切であることを示されています。

「自行」とは、自分自身が妙法の利益を得るための修行であり、具体的には勤行(=読経・唱題)です。

これは、私たち自身の生命に、大聖人と同じ智慧と力を現すための実践であり、大聖人の仏の生命が顕された御本尊を信心根本に拝していくことで、大聖人と同じ仏の境涯をわが身に開くことができます。

「化他」とは、周囲の人に正しい信心を勧める折伏・弘教です。広宣流布のために、私たちが励んでいる学会活動も、この化他に入ります。

大聖人は「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同1022ページ)と教えられています。

自ら題目を唱えるとともに、人々の幸福を祈り、対話を重ねていく――この行動の積み重ねの中でこそ、自身の胸中に揺るぎない仏の境涯が築かれるのであり、“今世に人間として生まれてきた最高の思い出”を刻むことができるのです。

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相手の幸せ願う真心を伝えること(池田先生の指針から)

日蓮大聖人は、「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書467ページ)と仰せになっている。自行化他の信心に励み、人びとの幸せを願い、仏法を教え、友を励ましていく。それこそが、今生人界の思い出となると言われているのだ。

人間として生まれ、正法に巡り合えたからこそ、広宣流布の大偉業に連なり、人びとに仏法を語って、地涌の菩薩の使命を果たしゆくことができる。そう自覚するならば、学会活動に参加できることに、無上の喜びを感じざるを得まい。

そして、どれだけの人に法を説き、発心を促し、人材を育てていくか――そこに人生の最高の充実があり、それは、そのまま永遠不滅の光を放つ生命の財宝となるのだ。

(以上、2016・2・27付、小説『新・人間革命』常楽48より)

妙法をどれだけ弘めたか。その歴史は、後になるほど光る。

人生、いろいろな思い出があるが、折伏が何よりの金の思い出となる。積極的に行動し、交流することだ。それが折伏に通ずる。

御聖訓に「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(同467ページ)と仰せの通りだ。生命の法則に則った無上の行為であり、永遠不滅の思い出である。

(以上、12・2・5付、「名誉会長と共に 今日も広布へ」より)

友人と真剣な対話を重ねても、感情的に反発されたり、なかなか仏法を理解してもらえないと悩む友もいるだろう。(中略)たとえ、思うような結果が出なくとも、くよくよする必要は全くない。

私も同じであった。どうすれば思いが伝わるのか、相手の心に届くのか――その繰り返しだった。

誠意を尽くして書いた友への手紙が、全部、送り返されてきたこともあった。唇をかんだ悔しさ、悲しさも、今は懐かしい。

「心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(同467ページ)との仰せは、人生の年輪とともに深く強く拝される。

(以上、『随筆 対話の大道』より)

※ 池田先生の指針の参考文献:2017年5月号「大白蓮華」、「世界を照らす太陽の仏法」37ページ~39ページ(聖教新聞社